はじめに:身近な「黒い液体」の知られざる物語
鋼鉄の橋を錆から守り、船の底を水から隔て、地下の水道管を腐食から防ぐ。私たちの社会基盤を支える現場には、黒く粘り気のある液体が不可欠です。その中でも「コールタール」は、かつて産業界で安価で高性能なヒーローとして君臨しながら、やがて深刻なリスクを抱える危険物へとその姿を変えていった、驚くほど複雑でドラマチックな歴史を持つ物質です。この、かつて産業を支えた物質の本当の物語をご存知でしょうか?今回は、コールタールの知られざる4つの真実を解き明かします。
——————————————————————————–
1. 「タール」は1種類じゃない。アスファルトや正露丸との「危険な」混同
「タール」と聞くと、多くの人が同じような黒い物質を思い浮かべるかもしれませんが、その正体は一つではありません。この言葉の曖昧さが、実は重大な誤解を生む原因となっています。
まず、道路に使われるアスファルトとコールタールは、原料も成分も全く異なる物質です。コールタールが石炭を蒸し焼きにして作られるのに対し、アスファルトは原油を精製した後に残る残留物です。化学的にも、アスファルトが炭化水素を主成分とするのに対し、コールタールはベンゼン、クレゾールなど300種以上の芳香族化合物を含む複雑な混合物であり、根本的に違います。
さらに驚くべきは、医薬品との関係です。木材の防腐剤として使われる「クレオソート油」はコールタールから作られますが、胃腸薬「正露丸」の成分として知られる薬用の「クレオソート」は、ブナやカエデなどの木材から得られる木タールを原料としており、全くの別物なのです。
このように、「タール」という一つの言葉が、由来も用途も、そして健康へのリスクも全く異なる物質を指しています。この一見些細な言葉の違いが、リスク評価や法規制において重大な意味を持つことを理解することが、コールタールの真実を知るための第一歩なのです。
2. 100年前、日本の実験室で暴かれた「不都合な真実」
コールタールが持つ致命的なリスク、すなわち「発がん性」が科学的に証明されたのは、今から100年以上も前のことでした。そしてその発見は、日本の研究者による画期的な成果だったのです。
1915年、病理学者であった山極勝三郎博士と市川厚一博士は、ウサギの耳にコールタールを繰り返し塗り続けるという、忍耐を要する実験を行いました。その結果、世界で初めて動物に人工的にがんを発生させることに成功したのです。この画期的な研究は、化学物質ががんを引き起こすことを証明し、その後の全ての発がん研究の基礎を築きました。タールに含まれるベンゾ[a]ピレンといった特定の発がん物質が特定されるきっかけともなったのです。
1915年、日本の病理学者である山極勝三郎博士と市川厚一博士は、ウサギの耳にコールタールを繰り返し塗布するという地道な実験の末、世界で初めて動物に人工的にがんを発生させることに成功した。この忍耐強い研究が、後に化学物質の発がん性を証明する道を開いたのである。
しかし、この科学的な発見が社会的な規制に結びつくまでには、半世紀以上という長い時間が必要でした。行動を促したのは、さらなる悲劇でした。1972年、コークス炉で働く作業員に肺がんが、電極製造の現場で皮膚障害が多発しているという健康被害が社会問題化し、ようやく日本でコールタールが「特定化学物質障害予防規則」の対象として厳しく管理されるようになったのです。科学的な真実が証明されても、現実の被害が起こるまで社会や法律が変わらなかったこの歴史は、私たちに重い教訓を突きつけます。
3. 「安全な代替品」は、実は「高性能な進化版」だった
科学的な審判は下されたものの、産業界は何十年もの間ジレンマに直面していました。彼らが知る悪魔(コールタール)は、あまりにも効果的で、簡単に手放すことはできなかったのです。状況を一変させたのは、単なる代替品ではなく、旧世代の王者をあらゆる面で打ち負かす「後継者」の登場でした。それが「ノンタールエポキシ塗料」です。
この新しい塗料は、安全なだけでなく、元の製品をあらゆる面で凌駕する「進化版」でした。
- 圧倒的な耐久性 (Overwhelming Durability): まず、塗料本来の性能でコールタールを圧倒しました。タールエポキシ塗料の実績耐用年数が15年程度であったのに対し、ノンタールエポキシ塗料の耐水性はその6倍以上に達するという報告があり、水道管などの用途では100年を超える耐久寿命が推定されるほどです。
- 色の自由 (Freedom of Color): 次に、長年の弱点を克服しました。従来のタール系塗料は、上に明るい色の塗料を重ねると、タール成分が滲み出して変色させてしまう「ブリード」という大きな欠点がありました。ノンタール塗料はこの問題を完全に解消し、塗装の色の自由度を飛躍的に高めました。
- 安全とコスト削減 (Safety and Cost Reduction): そして決定打となったのが、安全性と経済性です。発がん性物質を含まないため、労働安全衛生法に基づく厳しい「特定化学物質障害予防規則」の対象外となります。これにより、事業者は排気装置の設置や特殊な健康診断といった厳格な安全管理義務から解放され、管理コストを大幅に削減できるようになったのです。
コールタールからの転換は、安全性の要請だけではありませんでした。代替品が技術的にも性能的にも明らかに優れていたという事実が、その王座からの退位を決定づけたのです。
4. 発がん性はあるのに「毒物」ではない、という法律のパラドックス
コールタールに関する最も意外な事実の一つが、その法的な分類です。コールタールは、国際がん研究機関によって発がん性が最も高い「グループ1」に分類され、日本の労働安全衛生法でも厳しく規制されています。
しかし、これほど明確なリスクがあるにもかかわらず、コールタールは「毒物及び劇物取締法」における「毒物」や「劇物」には指定されていません。
この一見矛盾した状況は、法律が持つ目的の違いを浮き彫りにします。「労働安全衛生法」の目的は、専門家が管理する職場で、労働者を職業的な化学物質への反復的なばく露から守ることです。一方、「毒物及び劇物取締法」はより広く、急性毒性の高い物質の誤用や盗難などから一般市民を守ることを目的としています。つまり、コールタールの規制は、主に「働く人々の長期的な健康」に焦点が当てられているため、このような法的な区分が生まれるのです。この法律のパラドックスは、化学物質の取り扱いには、物質の性質だけでなく、適用される法律の意図を理解する専門知識がいかに重要であるかを物語っています。
——————————————————————————–
おわりに:一つの物質が語る、技術と社会の100年
コールタールの物語は、低コストと高性能を両立する「産業界のヒーロー」が、やがてその座を追われるまでの一大叙事詩です。科学がその隠れたリスクを暴き、より優れた代替品を生み出す技術革新が起こり、そして安全性を求める社会の声が高まる。この三つの力が作用しあい、産業構造そのものを変えていく力強い教訓がここにあります。
コールタールの物語が明らかになるまでには、100年以上の歳月がかかりました。私たちが今日、当たり前のように頼っている身近な物質の中にも、まだその全ての物語が語られていないものが、あるのかもしれません。
コメント